プロローグ

 柔らかな気配と共に、ふわりとイーノックの背中を抱きしめる者がいた。
 波打つ髪がイーノックの頬を擽る。
「まだ仕事? 熱心だね君は」
 心地よい美しい声が舞い、イーノックの疲れた頭を癒した。
「アルマロス……」
「イーノックの声好きだよ。もう一度名前を呼んで?」
「アルマロス」
 指を絡めながら贈られるくちづけに、イーノックは瞳を閉じて心地よさに酔った。
 美しく軽やかな音を奏でるこの天使は、イーノックが最初に心を開いた友だった。
 時を忘れて二人は語り合い、そしてお互いへの想いを重ねていった。
 ふわりと体が浮き上がり、気がつくとイーノックはアルマロスに横抱きにされていた。
 だが、本当に抱かれているわけではない。
 アルマロスの体はイーノックの体を包み込んではいたが、それはあくまでイメージ。
 そう見えるだけなのだ。
 そのまま寝所に運ばれて、ゆっくりと寝台に下ろされる。
 重なった体も、重みも、すべて偽りのもの。
 滑る指先の感触も、熱い吐息もだ。
 だが、イーノックが感じている快楽はまぎれもなくホンモノで、アルマロスの指先が奏でる刺激に体の先まで強ばり、背中が反り返る。
 濡れた感触が胸をつたい、小さな突起に噛みつくのを感じ、イーノックは思わず声をあげた。
「ねえ、イーノック」
 柔らかく美しい音。
「ぼくはね、肉体を得て君に触れたい……。人間のように触れあいたい。それが叶うなら、何を亡くしてもいいと思っているんだ」
 睦言のように囁かれた言葉に、イーノックは驚いて瞳を見開いた。
 目の前には、今まで見たことがないような真摯な表情のアルマロスがいた。
「いけない……アルマロス」
 イーノックは両手をのばし、その頬を柔らかく包んだ。
「どうしていけない? 君の美しい魂には触れられても、肉体には触れられない……。君さえ快楽が得られるなら、この偽りの抱擁でもいいって思っていた……でも」
 柔らかくアルマロスの唇がイーノックのそれに触れた。
「僕も少し欲張りになってしまったんだよ。君という存在を知って……ヒトをもっと知りたくなった……本当の君を抱きたい……。本当の君とひとつになりたい……。ホンモノのヒトの肉体で」
 それがどういうことを意味するのかは、どんな結果をもたらすのか、まだイーノックには理解出来なかった。
 ただ縋り付きたくなるくらいの不安が不気味に溢れだしてくるのを止められなかった。
「そんな顔しないで、イーノック」
 泣き出しそうに顔を歪ませたイーノックに、アルマロスはいつも通りに柔らかく微笑んで見せた。
「君を悲しませることはしないよ……、約束する。神に誓って……。そして君の愛に誓って」
 ふわりと被さってくる暖かい仮初めのぬくもりに、イーノックは切なげにしがみついた。




「ヒト一人来ただけで天界はえらい騒ぎだよ」
 柱によりかかりながら、一人の大天使が携帯電話で話をしていた。
 短い黒い髪に、黒いシャツ。真紅の瞳をもつ大天使だ。
 腕を組み、けだるげに髪をかきあげる。
「アレを呼んだのは君だからね。こうなった責任は君にあるよ。まったく、みな人間一人にふぬけになりすぎだろ? 特にあいつ、アレに執着しすぎだと思わないかい?」
 不機嫌そうに告げると、電話口の相手が諭すように言う。
「え? 私も変わったっていうのかい? どこが?……それはないよ。私はいつだって私だ」
 拗ねた子供のような反論に、電話の相手は苦笑したらしい。
「もともとは君の気まぐれだろう、あんな人間を天に召し抱えて。それにアレの教育係は私だったはずだ。なのになぜアイツが四六時中側にいるんだ? しかもヒトの睦みごとのまねごとまでして。……え? うらやんでなどいないさ」
 そう言うと、大天使ルシフェルは、薄い唇の端を微かにあげ、酷薄そうに微笑んだ。
「でも興味はあるよ。あの人間ごっこがどこまで本気なのかっていうね。君も興味あるだろう?」
 電話口の相手は黙り込んだようだ。
「まあ、既に賽は振られた。時間はたっぷりある。私は気長にアレを取り戻すことにするさ。君からもらった大切なプレゼントなんだからね。もちろん君にはこの茶番の結末は既に見えているのだろう?」
 喉の奥で笑いながらルシフェルは電話を切り、遙かなる天を仰いだ。
 どこまでも続く白雲の中に佇む大天使は、一瞬のうちにイーノックの寝所へと移動した。
 先ほどの恋人との情事のせいか、イーノックは安らかな寝息をたてて眠っている。
 ふわりと上体を浮き上がらせ、先ほどアルマロスがしていたようにイーノックへとのし掛かる。
 重みを与え、偽りの熱を与えると、イーノックは驚いたようにまぶたを開いた。
 突然の来訪者に怯えたように頬を強ばらせ、不安げに見上げてくる。
 類い希なる美しい魂を持つというこの人間は、いつになっても自分には慣れない。
「そんなに驚かなくてもいいだろう。いつでも好きなときにお前の側に行き、お前に触れる権利があるのはわたしだけだぞ?」
 いたずらっぽく微笑みながらも、目の奥は無表情で感情が一切ない。
 揶揄するように紡ぐ言葉も一見優しげだが、その中に親愛の情を見つけることはできなかった。
「いい加減そう怯えなくてもいいだろう」
 柔らかく触れてくる指先を、イーノックは戦きながらも払いのけることは出来なかった。
「まあいい、愛しいお前のために最上の恋物語を用意してやろう。最高の結末とともにな」
 ルシフェルの指先から軽やかな音が奏でられる。
 その音を合図に、運命の一ページが大きく開かれた。